『一億百万光年先に住むウサギ』

saikaku2006-10-11

自己の内から、或いは、自己を通して顕れて来るところのこと、それを表現していく、このように言葉にしていく、そのことは、ただ、そのこととして、そのような行為としてあるのであって、その、表現していくことのみが、そのことだけが目的である、そう、そのことについて、どのように評価されていくのかとか、そんなことは少しも問題ではなくて、ただ、自己を通して顕れて来ること、それを表出していくことだけが意味を持っている、ただ、純然と自分だけの行為としてある、でも、それが、自我からのこと、そのようなことであれば、その不安定さ、自分の頭で考えたとしても、その、借り物としてのこと、結局は、そのようなこと、聞き覚えのあること、そのようなこと、それを表現していくということにおいては、不安が付き纏う、そう、そのようなことにおいても、その、正しさの評価、判定、そのことを求めていくということ、そんなことになっていく、他者の評価、或いは、自分の言っていることに対しての指示、それを求めていくということ、或いは、依頼心ということ、そのことが芽生えてくる、そんなところのことなんだと思う、末那識からのこと、それがこれに当たる、そして、阿頼耶識、更にその底があるようだ、そのところからのこと、集合的無意識とか、そのようなところからのこと、そのことが、むしろ、その、普遍的なところのこと、その、共通している、誰にでも観られる、そんなところのことがあるのだと思う、そのようなところの基礎付けられていく、そのような生き方があると思う、そして、問題は、実行段階での問題は、やはり、その、生活の在り方、生活のリズムということなのだと思う、何から始めていくのか、そして、どのように進行していくのか、その、一日の生活のリズム、それを確かなことにしていくという、何か、そのようなこと、カント的な厳格さがなくても、その、もう少し融通と利かせていくこともできると思うが、時間的なこと、決まったこと、起きる時間からのこと、どのようなことを行っていくのか、そのこと、生活ということの在り方を固定化させていくこと、まあ、そんなことも出来るのではないかと、急ぐこともないが、そう、ゆったりとして時間を過ごしていく、そんなところのこと、ただ、前だけを見ていくということでもなくて、そう、余裕ということを持ちながら、でも、その、一定しているところの生活の在り方、そのようなことに中で、その、自己を通して十分に表現していくことができればいいのではないかと、そんなところへ落ち着いていく、まあ、そんなことなんだと思う、この本は面白い。