『アバウト・シュミット』

saikaku2006-10-16

日曜日は映画を観ていくことにして、そのようなことにして、時間がある限り、観ていくことにしていく、まあ、そのようなことでいいのではないかと、出来るだけ真剣に観ていくことにする、その、どうなんだろうかと、周りにいる者には言えなくて、偶々里親になった、その子どもに対して、その子は文字も読むことができないのに、手紙を送る、そう、自分の日ごろの鬱憤を晴らすかのような手紙をおく、その、溜まっているところの怒り、それも手紙にして送る、そう、そのようなことをする、そして、娘との不和を解消するために、まあ、旅に出る、自分の生誕場所へ行く、そんなこと、よくあるパタン、そう、実際にもよくあるパタン、何か忘れてきたものはないのかと、それを探しに行くという、そんなところのこと、そう、そして、その、返って来た手紙、子どもからの絵、その、人間関係を大事にするという、ただ、そのようなメッセージが込められていた絵、そう、現実の悲しい出来事には耐えることが出来ても、その、一枚の絵には涙する、その、何か、核心的なところのことに触れてくる、そのようなものに涙する、まあ、上質のものだと思う、そう、何かしら、問題は、その、人間関係のことになる、鬱が増えているということも、根本的なところは、人間関係にあると思う、今の社会の、その難しさにあると思う、そして、夜、『クジラの島の少女』も観る、以前にも観ているが、何か、惹かれているところが残っていて、もう一度観る、そう、その、根源的なところのこと、民族としての、その、起源にまで遡る、そのようなところに基づく生き方、或いは、クジラの存在ということ、何か、その、間違っている、因習に固執しているところのこと、その間違いを正すかのように、クジラが死を試みる、そして、また、その少女も死に掛ける、そして生まれ変わる、そのようなところのこと、因習ということを変えていく、或いは、人間が思い込んでいるところのことを変えていくのは、そう容易いことではなくて、そんなことではなくて、死を賭してでも、という覚悟がいるほどのことなのではないかと思う、そう、それほどのこと、そして、その、民族全体も、再生するという、そんなことになっていく、その、後継者が見つからず、いわば、民族全体が鬱になっている、そんなところのこと、或いは、打つでもいい、打ち止めになっているような、そんな閉塞感が漂っているところ、それを打破していく、打破という勇ましいことでなくても、そのことは、そう、身近なところから、そんなところから始まっている、それを認めていくのかどうか、結局は、そんなところのことだと思う。