『ダ・ヴィンチ・コード』3

saikaku2006-10-17

この本は、単に小説として読んでしまうという、ああ面白かったというように読んでしまうということもできるのかもしれないが、でも、考えさせられる、その、原罪とか、三位一体とか、そんな言葉も、その意味するところのこと、それは何なのかと、分かったつもりで聖職者は説く、それ以外の人間も、その意味を解説する、でも、実際には何なのか、と、そう、異端審問ということも、魔女狩りということも、何のためのことだったのかと、その、作られたところのこと、偽られたところのこと、そのようなことによって、壮大なものが創造されてしまっているという、そして、後は、それを守っていく為の、防衛していくということが、そのことが行われていく、ただ、その、一宗派ということだけに限らず、そう、何か、そのようなことが多く、そして、精神構造の中に這入り込んでしまっているという、そんな危機感も覚える、実際に、そうなってしまっているという、そんなところのことになってしまっている、何か、怖いというか、その、いつの間にか、催眠術をかけられてしまっているような、そんなところのこと、自意識に基づく行動をしていると、自分で判断しているという、そのように思っていながら、実は、ある意図の下に行動しているという、シラスのような、そんなことをしているのではないかと、そう、どうしていけばいいのかと、その催眠術、それから解き放たれていくこと、それを自らにおいて解いていくこと、どうしていけばいいのかと、何か、その、無知蒙昧、無知迷妄とか、そのような状態から、真実なところのこと、それを観ていくという、そう、単純には、自分自身が納得できるのかどうか、無理に納得、分かったつもりになっている、そうならざるを得ないという状況へ追い込んでいることがないかどうか、そんなところのことになるのではないかと思う、そう、そんなこと、でも、一つの宗教と権力者が結びつくとき、或いは、権力者がその勢力を利用する、また、布教活動に利用できると逆に意図する、それが絡んだとき、何か、そのような事例は枚挙に暇がないという、そんな感じもする、空海嵯峨天皇とか、それもある、ヒトラーユダヤ人排斥主義とか、戦後の日本でも、所得倍増とか、列島改造とか、そんなことに浮かれていたときがあった、今もある、そう、そのようなことも、また、人間の為せるところだと、そのように考えていくことも出来るが、でも、その、真実なところのこと、でも、この、真実という言葉も危うい、そう、何か、その、寄る辺という、基礎としていくところのこと、何か、その、土台ということが崩れてしまったような、そんな根本的な危機を与えられた本だった。