『僕たちは池を食べた』

saikaku2006-10-18

自分自身の仕事は何かということ、それをはっきりとさせていく、というか、それに焦点を当てていくというか、そのことが大事なことなのだと思う、また、拡散させていかないこと、物理のことを遣っていく、或いは、数学の問題を解いていくということも、結局は、昔取った杵柄というほどのことではないのかと思う、そう、それが出来るということ、自信を取り戻すという意味、そんなことをしなくてもいいのではないかと思うが、でも、それも、今のこと、その、本を読んでいく、いろんな本ということでもなくて、その分野も自然に限られたものになっているが、その、一冊の本を読んでいく、そして、それについてのこと、思うところのことを書いていく、或いは、人の話を聞いていくとか、その一連のこと、また、休日でのこと、そのこと、自己を通してのことを表現していく、そのことによって、自己を識っていくという、その目的に向かう仕事、それを行っていくことへの自覚、或いは、自信、それが、まだ、百%のことではないということなのだろうが、でも、そのようなことになっていくのだろうと思う、人の役に立ちたいという、そのようなところのことではなくて、人の役にたつということの前に、自分の仕事ということを、その目標ということを見失わないことの方が、そう、そのことの方が大事なことなんだと思う、自己を識っていくこと、そのことが、そう、催眠術を解いていく、その最善の方法なのではないかと思う、その、意識の世界においてのみ催眠術というのが有効であるとすれば、それ以下へ降りていくこと、そのようなことをしないと解けない、自然にそう思い込んでいるところのこと、その呪縛を解いていくことも、それ以下のレベルへ降りていくこと、そのようなことをしないと、その、真実性ということが観得て来ない、そんなことなんだと思う、そう、曖昧なところのこと、そう、そこへ降りていっても、そこが揺るぎない岩盤であるという保証もない、そのようなこともない、そう、何か、確かなところのこと、そのことを求めていく、自分の存在ということを確認できる、そんな確かなところのことを確認できる、そんなことを求めている、その、依存関係を強めていくということもあるし、また、強迫神経症になっていくことも、自然なこととして起こる、そう、結局は、人間というのは厄介な生き物なんだと思う、どのように分類していくとしても、厄介なところを抱えている、そんな存在なのだと思う、この、存在、という言葉自体が、問題の素を含んでいる、そのようなことではなくて、ただ、四季の変化、流れる川のような、ただ、それであれば、淀みとしての精神病院もなくなる。