『家庭という病巣』

saikaku2006-11-10

何かが崩れているのだと思う、その、親から子どもへのこと、或いは、教師から生徒へのこと、その対応ということについて、その関わり方ということについて、その、今までは表面化しなかったこと、昔の対応ということが、決してよかったとは思わない、その、世代間において引き継がれてきたところのこと、子育てとして受け継がれてきたところのこと、そのところの問題が、今、集約されて起こってきているのではないかと思う、昔の子育てのあり方が決してよかったとは思わない、また、その人間関係のあり方、或いは、ムラ社会のあり方、共同体としてのあり方、そのことが決してよかったとは思わない、そう、どのようにしていけばいいのか、原因追求ということではなくて、これからのこととして、どうしていけばいいのか、そのことがある、その、学校においては、教師は、家庭の問題へ首を突っ込むということをしない、家庭の問題は家庭のこととして、そのようなこととして留め置かれている、しかし、その問題を解決していくということではなくて、そのようなことではなくて、ただ、それぞれの親の話を聞いていくこと、それさえも出来ていないのではないかと思う、そう、そんなことになっているのではないかと思う、ただ、その、話を聞いていくこと、或いは、親ということではなくて、それぞれの子どもの話、それさえもゆっくりと聞いていないのではないかと思う、そう、そんなことになっていると思う、虐待ということは、別に家庭の問題ではなくて、学校においてもそのようなことがあるし、或いは、家においては、躾という名の下に、学校においては、指導という名の下に行われている、会社においては、パワハラとか、セクハラとか、ネグレクトとか、同じようなことが行われている、その、個別の名称ということに囚われずに、人間関係のあり方として、その、望ましいところのこと、先ず、対話をする、そのようなところから、相手の話をそのままに聞いていくところのことから、先ず、受け容れていくところのことから、そのことから始めていく、自分の思うところのことではなくて、経験談とか、そんなことではなくて、先ず、相手の話を聞き容れていくところのことから始めていく、そのような人間関係の構築から、先ず、始めていく。