『君を守りたい』

saikaku2006-11-16

その、いじめというのは、人間の本性なのだろうか、或いは、本能なのだろうかと、何時でも何処でも起こるというような言い方をされている、起こって当たり前、起こることも当然のことのような、そして、その対策、どう対処していけばいいのかということに、文科省の通知の趣旨も当てられている、そう、起こって当たり前、という、その、病気ということであれば予防ということが考えられるが、いじめということに対しては、その予防策ということはないのだろうかと、それがあったとしても、子供の様子によく注意していきましょうとか、生徒の動向をよく観察していきましょうということになっている、そのようなこと、昔からいじめはあったと、或いは、動物の世界でもいじめというか、弱い者いじめはあるのだろうかと、でも、今の子供のようにだんだんとエスカレートしていく、そして、相手を死に至らしめてしまう、死まで追い詰めてしまう、そのようなことになっている、そのことに罪悪感を持つことになるのか、それとも次の標的ということを探していくのかという、どうなんだろうかと、その、人間が更正していくということも可能なのだろうかと、この本は、そのことを否定しているような、人間教育ということも否定しているような、そんな主旨で書かれている、まあ、今の情況の中では、そのような意見も通って行き易い、そんな気がする、その首謀者と厳罰に処すということで、解決していくような、そう、それで解決してしまうのだろうかと、何が問題なのだろうかと、その、いじめがエスカレートしていく、その為の、それを助長していく環境ということが、一つあると思う、それを許していくような、また、そのことに加担していくようなものも現れていく、窓ガラス一枚割られたとき、落書きが一つでもあったとき、それを放置していくところから、それが許されていく、そのような風潮が生まれていく、そして、段々を拡大していって、手がつけられなくなる、そのような情況に今なってしまっているような、学校の情況がそんなことになってしまっているような、そんな気がする、その、不良債権を処理したときのように、非常事態において、その、特別な措置、臨時的な、緊急避難的な措置ということが、とりあえず必要なのではないかと、そして、平時におけるときの対策ということは、それが終わってからのことなのか、こんなときにあって、教育基本法を改正しているということ、何か、離れたことをしているという、そんなことも思う、その、本質的なところのこと、何処に、その人間性ということの核心を置くのかによって、いじめというのが、その本姓であるとか、或いは、そのことから人間になっていくという、その為のこととして、本来の教育ということがあるという、そのようなことなんだと思うが、このようなとき、そう、今までのことをゼロベースに戻して、もう一度、組み立てなおしていくことが、そんなところの努力が必要なんだと思う、今までの学校教育は、既に破綻しているから。