『ぼくはだれもいない世界の果てで』

saikaku2006-11-20

苛める方にしても、苛められる方にしても、その、集団から離れてしまうことの、孤立してしまうことの恐怖、それがあるのだろうかと思う、何か、問題は、自立していない、独りの人間としての行動がとれないということに、そのことにあるのではないかと思う、そう、大人になっても、そのようなことが出来ていない、そんなこともある、自立していくこと、倚りかからず、自分の判断に基づいて行動出来ていくこと、そのようなこと、大人になっても出来ていないという気がする、何なのだろうかと、いちばんは、教育の問題なのだろうかと、初等教育からのこと、その、集団で行う、或いは、みんな一緒にという、或いは、協調性ということを重要視していくという、そんなところのこと、昔、その、2人になる、3人の集団を作る、4人の集団を作るとか、そんなことを遣っていたと思う、あれが嫌いだった、そう、何か、そのときの心性、それは今も生きているような気がする、集団行動ということ、それに遅れないようにとか、そんなところのこと、何か、その、表立っての教育目標ということにはないけれども、その、日常的なところの指示、些細なところのことに、その言い方に、集団行動ということを助長していくようなところの意味、それが含まれているような気がする、何か、そんなところのことが染み込んでしまっている、そんな気がする、その、苛める方にしても、独りでは苛められない、そんなところのことがある、そう、また、苛めが発覚したとき、その解決策として、手打ち、というか、決まって、仲良くしましょうとか、握手をさせるとか、そんなことで、まあ、めでたしめでたしとか、そんなところで落ち着かせようとする、何か、それも、表面的なことであって、そんなところのことなんだと思う、その、もう一つ思うことは、教師が、その、日頃から、一人ひとりの生徒との関わり、それを持っていれば、個人のことについてよく知ろうとしている、そんなところのことがあれば、苛める方にしても、その行為を知られてしまうことを考えれば、出来ないということになるのではないかと思う、何か、教師の知らないところのこと、見えないところのこと、或いは、見ないようにしているのか、聞こえないようにしているのか、そんなところのことがあるような気がする、その情況を、日々の情況について、知る、大人がそのようなことをしていけば、何か異変ということが見えてくるような、何か、今は、子供の世界は子供の世界のこととして、割り切っているのか、任せっきりにしているのか、そんなところのことを感じる、そう、もっと出来るところのことはある。