『発達障害かもしれない』

saikaku2007-01-03

基本的に、その、一人の人間のあり方にしても、或いは、一グループにしても、また、一組織体にしても、更に、一国の有り様にしても、自分のあり方が絶対に優れているという、自分の考えていること、また、その行動しているところのこと、それが絶対に正しいと思い込んでいる、そのような自己中心的なところ、それが基本的なこととしてあるのだと思う、そのようなところから、相手のこと、対立しているもの、それを非難する、或いは、貶す、或いは、亡き者にしようと画策するとか、その対立するものを否定していくことになる、それが、その、今までの、2度の世界大戦、或いは、いくつかの戦争を経てきた、今までの世界の、或いは、人間のあり方だったのだと思う、でも、そのことが、何か、情報社会と関連づけていくと、その、自己中心的な、或いは、天動説的なあり方では、取り残されていってしまうという、そんなことになるのではないかと思う、相手の情報というものが、すぐにでも手に入れてしまうことが出来る、また、自分の情報ということも、すぐさま流出してしまう、お互いに、それぞれのことが、或いは、自分が知っている以上のことまで伝わってしまう、そのようなことになってしまう、そう、情報を管理して、その、自分の正しさだけを誇示していても、その裏側のところまで透けてしまっている、そう、そんなことになってしまっている、もう、自己中心的なあり方、自分の、絶対的な正しさを誇示する時代は終わってしまっている、そして、相手のことを、より積極的に、自分にとって意味のある情報ということを、より積極的に受け容れていくこと、自分の正しさということは、もう脇に置いておいて、それに固執するということではなくて、しかし、自分の独自性ということは維持しながら、情報を受け容れていく、そんなことになっていくのだろうと思う、先ず、人それぞれのこと、そのことを知っていくこと、そう、そのことから始めていく、それぞれ独自のものを持っている、その、他者のことを非難する、そのような人のことはいい、自分の生き方、それを、自分の人生を生きている、そのような人のこと、それを知っていく、或いは、受け容れていく、先ず、そのところから始まっていくのだと思う、多くのことを受け容れていく、そして、その、自分の独自性と維持していくためのこととして、その、ただ、受け容れていくということだけではなくて、このように自己を表現していくということ、このこと作業を忘れてはいけないのだと思う、その、受け容れた以上のことを表現していくということ、そのことを行っていく、まあ、今年も、このようにして進んでいくのではないかと思う。