「教室の悪魔」2

saikaku2007-02-16

苛めについて思うことは、苛められている子どもが、どうしてそのことを誰にも言えないのかということ、そして、その苛められているグループから離れられないのか、ということ、苛められていても、そのことを嫌とは言えず、極端に仲間外れになること、孤立してしまうということを恐れている、そんな感じがする、苛められていても、そのことによって、まあ、人間関係というか、それが曲がりなりにも続いている、そんなこと、独りで居るというに耐えられない、そんなところのことがある、そう、どうしてなのだろうかと、今の学校において、或いは、社会全体のこととして、その、孤立化することに恐怖を抱く、そんなところのことがあるのだろうかと、昔、私自身、小学生のときだったか、体育の時間、何の準備のためだったのか、或いは、単に時間つぶしだけのことだったのか、グループ分け、ということがあった、2人組になりなさいとか、5人組を作りなさいとか、もっと多くの人数とか、そんなことがあった、何か、そのことが非常に嫌だった記憶がある、今のその気持ちがある、その、あぶれてしまうこと、そのような状況になってしまうことを恐れていたところがあったと思う、今も、そのようなことを無造作に行われているのかもしれないが、或いは、グループで作業をさせるとか、まあ、そんなことは教師が好んでするところのことなのではないかと思う、掃除の班分けということも、無作為に、出席簿順とか、そんなことで決めてしまっている、そう、そして、連帯責任とか、まあ、今もあるのだろうかと、そのことに関連しているのかと、何か、自分だけが取り残されてしまうところの心理、そんなところのことを突いているのではないかと、苛める方も、そのところのことが分かっているという、そんなところがあるのではないかと思う、そう、そして、そのことを誰にも話をすることが出来ない、ということ、何か、自分の気持ちを、感情をそのままに受け留めてもらえるところがない、そのようなことではなくて、すぐに、事実関係を明らかにするという方向へ、そして、責任追及とか、そんな方向へ進んでしまう、その本人の感情は、置き去りにされてしまう、そんなところもあるのではないかと思う、そう、何か、苛めの問題ということ、今の社会全体のことが集約されているところも、そう、そんなところもあるのだろうと思う、意思の疎通ということが、そのことが、思っているほどには、情報化社会とはいうものの、実際の情報、というか、その心情的なところのこと、それが伝わっていないという、そんなところもあるのではないかと思う。