「出会いを求める少女たち」

saikaku2007-02-22

責任を追及するとか、結果責任を負わせるとか、原因を探すとか、何か、そのようなことが多過ぎる、後ろ向きのような、そんな印象を受ける、結果責任とかいうことは、結局は、その、自分らの行っている政策というものに、また、その実行能力に自信を持っていないということなのだと思う、自信がない、ということ、だから、その出来ないということの原因を他者に負わせていくという、それだけのことなんだと、苛めの問題ということにしても、学校に責任があるとか、いや、親に責任があるとか、苛められている方にも何か悪いところのことがあるのだとか、そのようなこと、また、北のしても、米の敵視政策が核開発に進んだ原因だとか、まあ、そんなことが多過ぎる、その、自分自信の、その言動というものが、他者の存在ということによって触発されている、その、自立したものではなくて、他者に恰も促されて起こしたものであるかのような、そんなことになっている、そう、それも、結局は、自らのこととしての、その、自信というものにおいて欠けているという、そんなところがある、そう、原因を追及していくことは、病気の原因を追及していくとか、そんなことも、あくまでも、次のこと、予防ということに意味があるのであって、その、次に同じことを起こさない、そんなところに意味があって、今、その病気になっている人には、今、苛めを受けている、そのような子どもには意味にないことだと、そのように思う、その問題は別のこと、そう、原因を追及していくということと、責任を追求していくということと、その、現に、その被害に遭っている、その人をどうしていくのかということは、別問題であると、でも、まあ、そのことが等閑にされている、そんなところがある、どう、その人に関わっていくのか、その、問題は、被害を受けている、何らかの傷を負っている、そのことについて癒されていく、勿論、その、自分自身から癒していく、そのこと、自分が直していくということ、そのことが基本的なことであって、その方向へ、どのような支援が出来るのかということ、そのようなこと、少なくともやってはいけないのは、それを阻害することなのだと、その、自らの癒す力を最大限発揮できていくように、そう、支援していくという態度、それに終始する、まあ、そのようなことなんだと思う、他者のこと、そのことを問題にしていくということ、そのようなことよりも、先ず、自分自身が、その、自らの持てる力、その潜在能力を活かしているのかどうか、それを活かす術を得ているのかどうか、そう、そのこともある、それが出来ないのに、他者に支援していくということは、そう、とうてい無理なこと、そう、でも、何もないうちに、そう、他者へ関わっていく、無理に関わっていくということも、まあ、何か、病理的な雰囲気も感じながら、そんなことも多くある、先ずは、自分自身のこと、そう、隗より始めよいう、そんなことになっていく、さて、数学というのは、自分にとってどんな意味を持っているのだろうかと、その能力、蘇らせることが出来るのかどうか、もう一度、始める。