「海辺のレッスン」

saikaku2007-05-09

この手の本は、以前よく読んでいたと思う、まあ、生き方のついての本というか、何か、生きるということについての洞察、人生を達観しているようなところのこと、何か、人間の生ということについて、真理を観ている、真理をみつけているような、そんなところがあるのではないかと感じて、そして、手に取ってみるということ、読んでみるということをしている、特にこの本では、エリクソンにも関係しているようなところがあって、そう、もう一段、その真理へ近づいていくことが出来るのではないかという期待もあった、けど、まあ、もういいと、何か、無理に言い聞かせているような、そんなところのことを感じる、何か、抑え込んでいるということでもないのだろうが、如何にも真理を見つけましたということでもないのだろうが、そう、まあ、何か、縁遠い、そんな感じがしている、ご随意に、という感じがしている、もういいと、そう、そんなことになってしまっている、そのようなことではないのではないかと、その、仕事場において、どうにも、あからさまに私へ言われているのではないが、でも、そんな感じで受け取ってしまっている自分が居ることに気づく、まあ、何か、そこに作為的なところのことを感じる、そう、そして、何か、勝手に怒りを持たされているような、そう、持たなければいいということにもなるが、でも、反応している自分が居る、そして、それを解消していくことが、何か、自分の余計な仕事として、でも、余計でもないのかもしれないが、そのような反応をすること自体、自分の内において、まだまだ、何かが在るということなのだろうと思う、そんなところのこと、そう、そして、何に怒っているのか、そのところのことを考えていく、つまり、自分で仕事が出来ないものに限って、他者への仕事を押しつけてくると言う、或いは、他者への注文としての言動が目立ってくる、そんなところのことがある、如何にも自分はしっかりと、その、自分の仕事をしているかのように言っていても、その、例えば、時間にルーズであったりとか、その実、自分では何ほどのこともしていなかったり、或いは、目立つことだけをしていたり、でも、肝心のこと、そのことはしていなかったり、まあ、そのような人間が居る、そう、無視をしていけばいいが、その、無視をするという努力をすること自体、何かヘン、そう、自然なこととして、そのような人間のことを意識しない、というか、そう、まあ、そんな人間も居るという、そんなふうに見ていけばいいと、でも、そのように意識の外へ外していこうとすると、また、その言動によって視界へ這入ってこようとする、鬱陶しいという、そんな気がする、そのようなことの、自分自身の内の意味、達観するということよりは、まあ、そのような日々のことが起こる、そのようなことの方が面白いのは、そう、面白い。