「自閉児との接し方」

saikaku2007-05-16

実際に、評論家は多いと思う、いろんなことを言っている、結局は、自分の体験談、経験したところのこと、巧くいったところのことを喋っているだけのことで、体系化されているということもないし、何か、そのところから得られるところもないと思う、でも、そのように、ただ、感想程度のことを語る、そのような人間は多い、その、実際のこととして、どのようなことをしていけばいいのかという、そのことについての行動指針を持っているのは少ない、というか、まあ、居ない、自閉ということであっても、その関わり方において、何か出来る、そう、何か出来るんだと思う、関わっていくこと、そして、相手と仲良くなっていくことも出来ると思う、そして、つくづくと感じるのは、別に、相手が自閉と限ったことではないのではないかと、そう、相手が誰であろうとも、人間が一人ひとり何らかの違いということを持っている、異なっている、ということから言えば、相手のことを理解していくということにおいては、どのような場合において、多くの努力を必要とするのが当たり前のことだと思う、相手が自閉でなくても、相手のことを理解していくことには、多大の努力が要る、相手のことを理解しようともせず、ただ、評論家の位置にいる人間にとっては、自閉でなくても、理解できないものは理解できない、自分自身のことも理解できていないのだと思う、まあ、そのようなことを感じる、評価になることもなく、ただ、自分自身、その、遣るべきところのこと、それを只管に行っていく、口で言うのは誰にもでもできる、実際のこととして行動していくということ、どのように行動していけばいいのか、そのことも分かっている、まあ、動いていくという、そのことがある、いろんなこと、回り道をしているところもあるが、本を読むということにおいても、結局は、その内容を理解していくということ、ただ、それだけのことなのに、まあ、分かったつもりになっているところ、そんなところのことがある、いい加減に済ませているところのこと、そんなところもある、疑問点を持っていく、そう、分からないところ、何かしっくりと来ないところ、そのことについては、自分自身、先ず、充分に考えていくこと、そして、相手に出来れば訊いていくということになっていくのではないかと、相手の話を聞いていくということに、まあ、そんなことになっていくと思う、相手のことを知っていく、そして、そのことによって変化を受けている、自分自身を識っていく、そのような段取りで進んでいくのだと、それだけのことなのに、まだまだ、余計なこと、脇道へ這入っていってしまう、そんなことになっていってしまう、時間配分については固定されてきているところもあるが、まだまだ、その中身のこととして、検討していく、また、実行しているところの余地、それを抱えている、今、暫く。