「モーツァルトとクジラ」3

saikaku2007-05-23

昨日からの問題は、どうして、その、人は有りの侭の生き方が出来ないのかと、また、それをそれとして認めていくことが出来ないのかと、そのことにある、先ず、基本的なこととして、そう、誰かの期待に応えるということではなくて、自分の生き方をしていくということがあると思う、そうなのだと思う、自分の生き方のこと、自分で満足していく生き方のこと、誰かに認めて貰うということではなくて、誰かの期待の応えるということでもなくて、自分の生き方のこと、今、私自身のことを考える、このように書いていることがある、今、このことが自分の生き方の中核となっている、自己の内からのこと、何か、いつも満水になってしまうような、心の内から湧いて来るところのこと、それを書いている、そのことが自分の仕事の中心としてある、これだけのことが書けるということ、それは、今までに読んだ本の多さ、それから得たところの知識、その積み重ね、それがあるのかと思う、そう、今までに多くのことを受け容れて来た、そんな蓄積ということがあってのことだと思う、そして、それらが融合しているかのように、新しいところが生まれて来るような、そんなところのことが浮かんで来る、そんなことになっているのだと思う、自分の内に何か一杯の宝物を持っている、それが自信の根底にあると思う、自分の生き方の自信に、今、繋がっていると思う、そして、このように書いている、そう、そして、また、新しく受け容れて、という循環している、そのサイクルが出来ているということも、そう、自分自身について、その自信を強化していると思える、逆に、何か自信をなくす、例えば、テストに失敗する、そんなことにおいても、ただ、失敗したということではなくて、自分が期待していたようには出来なかったということ、そのことの方が問題なのだろうと、あのトレーニングにおいても、自分は否定的であった、でも、講師の期待に応えていく人が多くいた、確かに、講師が期待しているかのようなことを応えていく、暗示に掛かっているとしか思えないが、そんな参加者が多くいた、そう、そんな心理が働く、恰も、その講師の人の意に沿うかのような、そう、そんなことを答えていく、如何にも、そんな反応が起こりましたというかのような答えが出て来る、期待に応えなくてはいけないとする強迫観念とでもいうような、相手のことを悲しませてはいけないとするかのような、でも、そのことが、立場が違えば、自分が講師の立場に立てば、どうして応えてくれないのかということに、そう、そんなことになっていく、満足のいく答が返って来なければ、多分、相手のことを責めていくことまでしていく、そのようなことにもなっていくと思う、それが怖い、そう、そのようなところの無駄な遣り取りを無くせないものかと、相手の評価には関係のないこととして、どのようなことであっても、その、自分自身のこととして行動していくということが出来るのではないかということを思う、一人ひとりのこととして、自分自身のこととして、自分の生き方のことを考えていく、そう、そのようなことになっていきたいと思う。