「湖の伝説」(梅原猛)

saikaku2007-07-11

この本も20年ほど前に読んでいた本、それをもう一度読み返す、少し前NHKの「新日曜美術館」でその三橋節子という画家の美術館が紹介されていた、大津市の長等公園内にある、昨日の本と共通しているところは、いずれも近江の国そして琵琶湖周辺が舞台になっている、「星と祭」ではヒマラヤにまで観月に行ったりもするが、後半では琵琶湖周辺の各地にそれを巡るように布置されている十一面観音像を訪ね歩くことになっていく、死者との対話ということも行いながら、そのような巡礼の旅を重ねていくことによってだんだんと死というものを受け容れていく、そのようなことなのだと思う、今日の本は、その画家の生き方を辿った本、或いは死を迎えるまでの話、ただ内容的には著者の饒舌すぎるところ、想像を逞しくして書き過ぎているところが気になる、でもその人の生き方そのものは充分に伝わってくる、最期の最期まで画を描くということに、自己を表現し尽くしていくような生き方に深い感銘を受ける、そしてこの画の先生は秋野不矩という人、今は浜松市に併合されたのか天竜市の小高い丘の上にその人の美術館がある、その建物自体も奇抜というか瀟洒な美術館であり鑑賞に値する様相をしている、三橋節子という人の生き方の特異なところは、その右腕を切断し無くしても左手だけで描き続けていたこと、その時点からもう死ということを意識していたような、また宣告されているのに等しい状況にありながら、近江の伝説や琵琶湖に纏わる物語に題材をとって自分の絵を描き続けていた、また雑草と呼び捨てにされてしまう草花の一本一本を、それもしっかりと存在しているかのように丁寧に描き続けていた、最期まで自己を表現し尽くしていくという生き方を行っていた、そのような生き方というか或いは死に方もある、自己の存在を誇示していくのではなくて、表現し続けていく行為によって自己の存在というものを拡散し更に雲散霧消していくような在り方がある、或いは自己への受け容れ方がある、慌て騒ぐということもせず静かにその最期のときまで自己の内に在るところのことを描き続けていく、そんな生き方そして死に方がある、生き方の問題というのは結局は死に方の問題なのだと、その人が一度入院していたところが京都市北部の深泥池の奥にある博愛病院、そして最期の場所が鴨川沿いの光景が眺められる京都府立医科大学付属病院の13号舎25室だったらしい、今思うのは、昨日の本と併せて昔このような本を読んでいたことの印象が記憶の底に残っているのではないかと思う、そしてその土地土地のことが何かしら気になってきている、惹かれていくところのものを感じる、そして一度ゆっくりと琵琶湖を巡るように歩かなければならないと、でももうそのようなことも始まっている。