「私にとっての『書く』こと」

saikaku2008-01-10

「書こう」と思う。村上春樹氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』に触発されてということでもない。前々から「書こう」という気持ちはあったのだと思う。ただその本に数メートルぐらいは背中を押されたような気もする。読み終えた今、「きちんと書き始めねば」へ切り替わっている。今まで思い付くままに書き散らかしたというか、PCへ打ち込んだ文章の長さなら、おそらくシェークスピアディケンズドストエフスキーも凌駕しているのではないかと思う。(どうだろう?)カウンセリングを学習し始めた頃から書き出した。徒然に(というほど品もよくないが)溢れ出て来る言葉を自動書記してきた。恰も指先で書くように。おかげでブラインドタッチは充分に出来る。そのような書き方で、波立った心の状態を静めていくのに役立ったと思っている。確かに。その為に書いていた。今は、「きちんと書こう」と思う。何回も添削を繰り返した文章を書いて来なかったわけではない。3冊ほどの「研究集録」にそんな文章が残されている。しんどくなるぐらい本当に何回も添削を繰り返して暫く放って置いてはまた添削をし、という具合に書きあげた文章である。最後は読み易いように口ずさむほどにする。一個一個の句読点の位置にも気をつける(当たり前か?)。出来上がったときには「ああ終わった」と肩の荷が下りた気分にもなるが「ああもう嫌だ」という気もある。此処が背中を押されたところなのだ。村上氏の本を読んで「同じなんだ」と。そして今、私も「きちんと書き始めていこう」と決めた。この決意によって、望んでいたかのように私の生活時間も区分けされていく。今早朝の3時間ほどは「書く」ことに専念していく。午前の4時間ほどは「習字&篆刻」。午後の時間は「読む」こと、受け容れていくことに。夜の時間は主として「算数数学の問題を解く」。算数オリンピックの過去の問題を解く。今まで逡巡していたこと、何時何をするのかと思い迷っていたことも、ジグソーが完成したような気分になっている。もう一つ思うことは、「きちんと」ということは既に始まっていたのだと。「篆刻」においても3回まで印影を見て刻し直すことを繰り返している、丁度「添削」しているように。そう、もう始まっていたのだと思う。