「もののあとさき」

saikaku2008-01-11

書くことにおいて「ダラダラと」と「キチンと」とは、精神活動の有り様として根本的に違っているような気がする。ダラダラと書いた文章を添削をしても、それでキチンとした文章にはならない。以前にもそれは経験していた。今、再確認した。モヤモヤの気分を落ち着ける為にダラダラと書く。それはあり得る。でもキチンとした文章はやはり姿勢を正して書かなければならない。…物事の起こり方、ある事象の生じ方をどのように考えていけばいいのか。因果関係は直線的で分かり易いし説明も易い。人の性格を血液型に求める。結局は性格を血液型に言い換えているだけのこと。同じように、虹は何故見えるのですか?光の分散です、空は何故青いのですか?光の散乱ですとか、それらも言い換えているだけのこと。ニューハンプシャーではクリントンが辛うじて勝った。それは前日に涙を見せたから人情味があると。ああ分かり易い。それも有りなんという気にさせる。それも影響しているのかもしれない。でもそれだけではなくて、もう後がないからどーんと資金力に物を言わせたのかもしれない。夫が暗躍したからかもしれない。或いはオバマが連勝すれば民主党の候補選びは終結してしまう、それでは面白くないと有権者が考えたからかも。オバマが有利というのは意図的な世論調査の結果だったとか。・・・いろいろなことが考えられる。此処で一つ思う。入って来易い原因だけに目眩ましされることなく、いろいろなことを繋げていく。出来る限りその全体性を見ていくことが必要なのだと思う。狭い因果関係ではなく突拍子もないと思われることも関連づけていく。ニュートンが地上の物体の運動を月の運動とを関連づけていったようなに。もっといえば、(マッハだったか)宇宙にある全ての星と関連づけていったように。単一の因果関係ではなくてネットワークを広げていき、その全体性を眺める視点、丁度オーケストラの指揮者の持つ視点というか聴点が必要だと思う。昨日も書いた。篆刻を始めたことがキチンとした文章を書くことに繋がっていると。更に、篆刻にしても文章を書くにしても、その自己表現の方向へ梶を切っているのは、多分今の職場においては自分を充分活かせないという想いと繋がっていると感じている。そんな気づきがある。